【ル・コルビュジエ】ル・コルビュジエとは?近代建築の3大巨匠と言われるル・コルビュジエの生涯を解説!

ル・コルビュジエ

ル・コルビュジエは近代建築の3大巨匠の1人と言われています。

活動拠点をフランスとして活躍し、「ドミノシステム」「近代建築の5原則」などを発明しました。日本にもル・コルビュジエの設計した国立西洋美術館があり、弟子には日本人の有名建築家もいました。

建築家の名前で誰もが一度は聞いたことのあるル・コルビュジエ。そんな彼の人生はどのようなものだったのかを詳しく解説していきます。

ル・コルビュジエとは?

ル・コルビュジエミース・ファン・デル・ローエフランク・ロイド・ライトと並ぶ近代建築の三大巨匠の一人です。

上記の「ドミノシステム」「近代建築の5原則」を発明したことで知られ、有名な建築には「サヴォア邸」「ロンシャン礼拝堂」「ラ・トゥーレット修道院」などがあります。

ル・コルビュジエの生涯
ラ・ショー=ド=フォンに生まれ時計職人を目指す

1887年にシャルル=エドワード=ジャンヌレ(後のル・コルビュジエ)はスイスのラ・ショー=ド=フォンに生まれました。

スイスとフランスの国境近くの山間部にあるラ・ショー=ド=フォン。この地方都市はオメガなどの時計ブランドの本拠地でありスイスの中でも時計の生産地として有名でした。

シャルルの両親も時計職人だったのでシャルルは家業を継ぐために地元の美術工芸学校に進学しました。しかし、シャルルはとても目が悪かったので時計職人への道は諦めることになります。

将来に悩んでいたシャルルに当時美術工芸学校で先生をしていたレプラトニエに建築をやってみないかと言われたことをきっかけに建築に興味を持ち始めます。

建築家を志し、建築を学ぶ

建築にハマっていったシャルルはレプラトニエの勧めで1907年に彼は建築家ルネ・シャパラと共に初めての作品となる「ファレ邸」の設計を手がけます。

その後1907年から数回に及んで海外旅行をします。その中で1908年から1年間パリに滞在し、当時新しい建材だった鉄筋コンクリートをよく用いる建築家オーギュスト・ベーレンスのもとで建築を学びました。

この経験が後の「ドミノシステム」や「近代建築の5原則」に影響を与えることになります。

パリを拠点とし、ル・コルビュジエ誕生

1911年から6年間再びラ・ショー=ド=フォンに滞在し1917年からパリに拠点を移します。当時のパリの建築界では競争が激しく名門校出身の建築家が名を馳せており、地方出身のシャルルに仕事はなく生活は困窮しました。

建築の仕事がなかったシャルルは絵画に没頭し、オーギュスト・ベーレンスの紹介で知り合ったアメデ・オザンファンと共に「エスプリ・ヌーヴォー」という雑誌を創刊します。そこではじめてシャルルはル・コルビュジエというペンネームを使用しました。

ル・コルビュジエが本名ではなかったのは驚きですね!

近代建築の5原則を発表し、最盛期の到来!

雑誌「エスプリ・ヌーヴォー」によって知名度を上げていったコルビュジエは徐々に仕事が増え、1926年には「近代建築の5原則」を発表します。

「近代建築の5原則」に基づいて「サヴォア邸」などの有名建築を設計し、国際的に活躍するようになります。

1928年にはCIAM(近代建築国際会議)の創設の中心的な役割を果たし、CIAMは1959年に解散されるまで11回の国際会議が開催され、機能的な現在のモダニズム建築の普及において重要な役割を果たしました。

1930年にコルビュジエはフランス国籍を取得し正式にフランス人となりました。同年にイヴォンヌ・ガリと結婚もしています。

第二次世界大戦が終結した1945年以降ル・コルビュジエ独自の新たな基準寸法であるモデュロールを発表し、それに基づいて「ユニテ・ダビタシオン」などを設計していきます。

晩年

1951年にコルビュジエは妻イヴォンヌへのプレゼントとして地中海沿岸のカップ・マルタンに小さな休暇小屋を建てました。妻イヴォンヌは1957年に亡くなりましたがその後もコルビュジエはしばしばその小屋に通っていました。

1965年8月27日、ル・コルビュジエはこの沿岸で海水浴中に心臓発作によってその生涯を閉じます。

ル・コルビュジエが設計した多くの建築の中でも17の建築物が2016年に世界文化遺産に登録され、現在も世界中のファンによって語り継がれています。


まとめ

今回はル・コルビュジエの生涯について紹介しました。

ル・コルビュジエの建築は「近代建築の5原則」が分かりやすく表現されているものが多いです。日本でもル・コルビュジエの作品に国立西洋美術館があるのでぜひ足をはこんでみてください!